EGOとは幻の自己
私(I)という時は、とんでもない単純化によって、無限の深さを持ったあなたが「私」という音声や頭の中の「私」という概念と混同されている。小さい頃から呼ばれる自分の名前、持ち物、性別、身体、国籍、宗教、役割、知識、これらすべてのものとIdentification(同一化)されて、これらの統合化されたものが自分だと信じている。
殆どの人は、絶え間ない思考の流れや衝動的思考に、自分を完全に同一化している。この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて「私」は存在しない。
この状態をスピリチュアルには、無自覚状態(Unconcious status)である。
頭の中には、一瞬たりとも止まらずに喋り続ける声がある。
人々は、そんなことはないと否定するが、その声そのものが無意識の言葉で、それが人々を乗っ取っているとともいえる。
自分の思考と本当の自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景にある気づきに自分自身のアイデンティティが移行した事がある人は、その体験を決して忘れない。また、アイデンティティの移行が非常に微妙だったために殆んど気づかなかったり、理由はわからないままに歓びや内面的安らぎだけを感じ取る人もいる。
EGOの構造
おもちゃを取り上げられて泣く子供の場合に例えると、おもちゃはEGOの心の中身にあたる。
この玩具は他の何にでも代替可能。それは、衣服でも、名声でも、地位でも、なんでも環境によって取得された「私の」ものである。
このモノとの結びつきによって自分のアイデンティティを強化したいという無意識の衝動がEgoisticな心の構造に組み込まれている。
EGOの基本的な構造の一つが、アイデンティティで、自己をこれらのモノと「同一化」することである。
人類の消費社会が成り立っているのは、モノを得ることによって(例えば高価な服を買うことによって)、自分とその高価なものとを同一視して、自己意識強化を行おうとする。
あるモノを持っているだけで、(例えば高級時計)なんとなく自分が重要人物だとか、優れた人間だとか感じないか?
まわりの多くの人がスマホを持っていると、自分も同じく(使う必要がなくても)持っていないと劣等感を感じないか?
自分の所有物に誇りをもったり、自分より豊かな人をうらやんだりするのは善でも悪でもない。
EGOは善でも悪でもなく、ただの無意識だということ。
EGOを退治しようなどと深刻に考えないほうが良い。
EGOを自分の中に見つけたときには微笑むくらいがよい。笑っても良い。
人類はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、翻弄され、最後には苦しんできたのだろう。
EGOは個人ではないことに気付くこと。EGOは自分ではない。
所有という幻
自分が所有しているモノをひけらかしても、それは自分ではない。私は100階建て高層マンションの所有者だと言ったとしてもそれは「物語」に過ぎない。マンションを所有しているという物語を形成している「思考の形」は、自分自身ではない。
多くの人が、死の床につき、外部的なものがすべて剥げ落ちて、
初めて、
どんなものも自分とは何の関係もないことに気付く。
人生の最後の瞬間に、生涯を通じてEGOの満足を求め続けてきたが、それは本当の自分ではなく「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったが、それが見えなかった。いや、見ようとしなかった。それはモノにアイデンティティを求めていたからで、つきつめれば思考にアイデンティティを求めていたからだと気付く。
心に何の持ち物もない、何にも自分を同一化していない、其の時に自分の深い「大いなる存在」の歓びを感じることができる。
ところが、モノを捨て出家して僧侶になったとしても、実はこの「モノ」とは精神的な所有物も含まれることを見落としてはいけない。自分は僧侶の修行を30年間やってきて「誰よりも深く真理を究めている」と思っているとすると、これは「精神的な所有物」でEGOそのものとなる。もっと言うと、今ここで説明しているEckhaltの言うEGOの仕組みを理解したあなたは、他のスピリチュアルの教えを信じている人々を見て、「ああ、彼らはまだわかってないな~」と自然に思ってしまう。そして何とか彼らの間違った理解を正してあげようと思うかもしれない。このような光景はスピリチュアルの会に集まっている人々の間でよく見かけられる。知らない間に、自分がEGOの餌食となってしまっているかもしれない。
EGOは巧妙で、すぐに別のモノを見つけ出す。それも本当の自分にわからないようにカモフラージュして存在を続けようとする。例えば、「自分は正しく他者は間違っている」という考えはEGOの心の典型的なパターンの一つ、無意識の形の一つだ。自分の所属している宗教の教えは正しく他の宗教は劣っているというのも全く同じEGOの形だ。
モノ以外で「身体」、男か女か、美貌かどうか、太っているか痩せているかなども強烈なEGOの対象になる。身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が損なわれても、自尊心やアイデンティティは影響されないだろう。
比較の中のEGO
EGOは比較の中に生きていて、自分が「他人にどう見られているか」で、自分を「どう見るかを決める」。自分は他人よりもスピリチュアルだと思うことで、自分のアイデンティティを作り上げる場合もある。何をどのくらい持っているかで、自尊心が決まる社会に住んでいると、自己意識のEGOを充足させようとして、虚しい欲望に振り回され一生、「モノ」を追い求めて「本当の大いなる存在である自分」を見失った人生を送ってしまう。
モノに対する執着を手放すにはどうすればよいか? そんなことはやろうとしないでよい。
ただ、モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。自分はモノに執着していると気付くだけでも良い。「執着に気付いている、その気づきが大いなる存在としての私が顔を覗かせていることなのだ」。
EGOからの脱出
EGOに気づくこと、それが第一歩だ。普通は、EGOの存在には気づかない。それは自分がEGOそのものとなっており、「大いなる存在としての自分」は全く気づかれていない。EGOとの同一化が習性となり、長期間(大抵の場合そうだが)経過していると本当の深いところの存在である自分を感じることはなかなかできない。
自分が考えていることに気づいた時に、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。
自分が夢を見ているとき、自分は夢の中の主人公で夢の中の全てのイメージに自分を同一化しているし、全ての思考に自分を同一化している。気づくというのは、夢の中で目覚めるつまり、そこに別の次元の意識が入り込むことだ。
言葉の説明は簡単に聞こえるが、実際は、なかなかの時間を要することだ。
理論は一度理解してしまえば、すごくシンプル極まりない。
実行する、実現化するにあたり、大きな壁は、自分の「EGO」、「幻のEGO」
EGOと戦って勝とうなどと思わないほうがいい。「戦おう」、「やっつけよう」、「克服しよう」と思う心そのものがEGOであるから、その瞬間にあなたはEGOの下僕となっている。闇の世界は底なしの暗闇。その代わりに「意識の光」を当てるだけで暗闇は消え去っていく。そこには何の力も、努力も、苦難も必要がない。ただ気づき、そして素直にYESと認めるだけで良いのだ。