EGOを深く識る(長文)

人は、常に頭の中に様々な声が流れている。自分でも意図しない脅迫的で絶え間ない思考の流れとそれに付随する感情。自分をこの頭の中の声に同一化している。これらの思考や感情に取り憑かれていると言われても、普通は「この思考の主が自分そのもの」だと思っているから、その背後にある「大いなる存在」である真の自分に気づかない。

自分そのものだと思っている心の中身は、育ちや、文化、家族的な背景、記憶、回りから学んだ見解、視点、反応パターン、感情など過去にインプットされた条件づけされたものだ。

全ての心の活動の確信は、くりかえし、しつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。これがEGOそのものである。

殆んどの場合、「私」というときは、EGOがそう言っているのであって、本当の自分ではない。

私と私のストーリーであるEGOは、記憶の集積、知らずに演じている習慣的な役割、国籍、宗教、人種、社会的地位、政治の党派などの集団的アイデンティティと、

個人的なアイデンティティー:自分の所有物(金、土地、…) に加え、自分の主義主張・見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、成功体験、失敗体験などが含まれる。

これらのEGOの中身は人それぞれ異なるが、違いは表面的なものだけで、根底にある構造と行動パターン、そしてその性質は同じだ。

このEGOを中心に生きているとアイデンティティの基盤は不安定で、常にぐらぐら動揺し、思考も感情も本質的に移ろいやすくもろく儚い。

EGOが存在し、「私」を主張する為には、その対極である「他者」が必要だ。そして、「他者」を「敵」とみなした時に、最も確かな存在となる。つまり、人の過ちをあげつらい、不満を言うEgoisticな強迫観念の習慣だ。この「敵」である他者は、個人間の場合も、国家間の戦争も基本は同じだ。他者を批判したり避難することで、自分が大きくて優れていると感じたいからだ。

目次

気がつかない蓄積した不満と恨み

不満は心が作り出し、自分が信じ込んでいる物語で、EGOが密かにかつ強固に心の奥底にその土台を築く。不満を声に出そうと頭のなかにとどめておこうと、違いはない。特に他人に対する不満は何度も頭の中で繰り返されて習性となる。無意識だから、もちろん自分では気づかない。人々を見たとき、話したりするとき、心の中で否定的なラベルを貼り、自分は正しいと勝ち誇るEGOの必要性を満たしてくれる。

恨みは、不満に伴う感情的なエネルギーで、他者の無意識を見過ごさず、他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さなどありとあらゆることについて恨む。他者の中に自分のEGOが投影されているのだ。

わかりやすい例が、まったくの誤解で、敵を見つけたがり、本当はありもしないことを相手の過ちとしてあげつらい、非難する。

EGOに反応しないこと

他人の中のEGOを見て反応する時には、実は、自分の中にもしっかり同じEGOが存在している。

他者のEGOに反応しないこと、それが自分自身のEGOを乗り越えるだけでなく、人間の集団的なEGOを解体するために最も有効な手段の一つである。

 

だが、他者のEGOに反応しないというのは、簡単ではない。面と向かって、ありもしない濡れ衣をきせられ避難されて、平静でいられるだろうか? 職場の上司から、何度もいやがらせのハラスメントを受けて穏やかな心で対応できるだろうか?

反応しないでいられるのは、誰かの行動がEGOから発したもので、人間の集団的な機能不全の現れだと認識できるときだけだ。その行動が、個人的なものではないと気づけば相手個人に反応しようという衝動はなくなる。自分が、無意識でなく意識的であることが鍵となる。

そして、EGOに反応しないでいると、相手の正気、EGOではない本来の「大いなる存在」の意識を引き出せる場合が多い。

反応しないのは、決して弱さではなく、本当の強さである。反応しないというのは、別の言葉で言えば、相手をゆるすことだ。ゆるすというのは、許可することではない、それは、深い洞察力で相手のEGOの本質を「見抜く」ことだ。また、EGOが幻であり、相手の本心つまり真実の存在を見抜くことだ。

自分の中のEGOに気づく

EGOは他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つ。つまり状況を敵にまわして、「私はこんなひどい会社にいたくない」、「こんな仕事は自分はやりたくない」、「こんな待遇は、不公平だ」、そして究極には、自分の人生そのものに不満をいだく。不平不満の想念は、いたるところに蔓延している。

何かに不満を持った時に、自分の頭の中の声を把握できるかどうか、つまりその正体に気づけるかどうかが、重要なポイントになる。その声が、何度も繰り返される条件付けられた心のパターン、思考でしかないことに気づけるかどうか。その声に気づいた時に、自分がその声とは違う存在であるということ、その声に気づいている存在であるということに気付く。その気づいている存在が、真実の自分である。

この時に、EGOから開放され、EGOそのものになりきって自分が見えなくなった状態から自由になれる。自分の中のEGOに気づいたとき、それは厳密に言えば、もうEGOではなく、古い条件付けられた心のパターンになる。

気づきとEGOは共存できない。気づきとEGOは戦えない。光がある所に闇は存在できない。スターウォーズでForceとDark Sideが戦うけれど、これはスピリチュアル的にみれば、両者ともEGOの中にいる。宿敵ダース・ベイダーは、父アナキン・スカイウォーカーであった。ルークは父をDark Sideから開放すべく修行を積み再びダース・ベイダーと対決する物語は、EGOからの解脱を象徴的にわかりやすくストーリー化したものだ。残念ながら、「対決する」という姿勢そのものが、既にEGOそのものなので、この物語は永遠に続く。

 

何千年もの長い間続いてきた人間の集団的無意識がその背後にあるのだから、古い心のパターンや習性はしばらくは生きながらえることだろう。EGOは、気づかれても、初めは頻繁に、顔を出し続けるだろうが、気づきの光が射す度に、力を弱められて、そのうちに消滅することになる。一つの、小さなEnglightenmentの始まりだ。

深い闇、怨恨の脅威

怨恨は不満にはじまり、それが、もっと激しい怒りなどの感情になり強力なエネルギーが充填された状態で、それを反応状態と呼ぶ。 この状態は、いつも何かに(なんでもよい)拒否反応を示そうと待ち構えていて、すぐに苛立ったり(キレやすく)、ムカついたりする習性の人間になる。

根の深い恨みは怨恨となり、これはいつも「対立」している状態で、多くの人々のEGOの相当部分を占めている。遠い過去に「誰かが私、または私達にしたこと」を繰り返して頭のなかで思考したり、声に出したりして物語ることによって、過去の出来事はいつまでも否定的なエネルギーを持ち、場合によっては、年月とともに増殖し、自分の中だけでなく、他の人々に広く伝搬する。

集団的な怨恨は、国は部族の心の中で、生存し終わりのない暴力の悪循環の火に油を注ぐ。世界の歴史をみれば、どう見ても愚かな戦いと殺戮が何千年と続いている。

怨恨をいだき続けていると、自分の人生の他の領域にもよくない現象が広がっていく。怨恨のマイナスのエネルギーは、現在起っている出来事に対する見方が歪むので、目の前の人間に対する話し方や行動にも明らかな影響が出てくる。マイナスの態度は、回りの人からもマイナスの反応を引き出すことが多いので、いつの間にか自分の回りに良くないことが起こり始める。強い怨恨が一つあるだけで、人生の大きな領域が陰って、EGOの罠から抜け出すことができなくなることもある。

闇からの脱出

自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全にゆるせない何者かが、つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、自分自身に素直で、正直でなければならない。もっと具体的に言うと、思考と感情の両方について、まず怨恨を生かし続けている「思考」に気づき、その思考の身体的反応の結果生じる「感情」をしっかりと認識することが必要になる。

怨恨を捨てようとか、ゆるそうとしてもうまくいかない。怨恨を抑圧したり敵対行動をとろうとすること事態がEGOの性質なので、益々EGOのマイナススパイラルに引き込まれ、もがき苦しむことになる。

EGOは想念が作り出した妄想であり、偽の自己意識であること、そして、そこには何の価値もないし、本当の自分に必要なものでもないと気づいたとき、自然に「幻の敵」をゆるすことができる。イエスが「汝の敵を赦せ」と教えたのは、この幻の敵を創り出したEGOを解体せよということ。実は、「敵」が幻の想念以外の何物でないと気づいたとき、そこに、もう「敵」は存在しないし、怨恨も消え去っている。赦す対象がなくなって、赦す必要もないことになる。

優越感と正義感の罠

正義感「自分が正しい」、「○○はこうあるべきだ」、「強欲な金持ちは、…」、「怠け者の失業者達は、・・・」、「職権を乱用する政治家達は・・・」、いろいろな人達にたいする不満を持ち続ける人は多い。テレビを見ていると、「政治家などを糾弾、非難する」番組の視聴率が高いことがわかる。このような不満を言っている状態は、自分が正しくて、その対極にある不満の対象の人達は間違っていると主張していることである。

自分が正しいという思いほど、EGOを強化するものはない。正しいと言うのは、ある精神的な立場、つまり、ある見解、判断、視点と自分を同一化している。自分が(自分の見解)正しいというには、他の誰かが、間違っていると決めつけて、その誰かに対して、自分が倫理的、論理的に優越していると思うことができる。EGOは優越感を通じて自らを強化している。

事実と見解の微妙な分岐点

「光は音より早い」とあなたが言い、それを聞いた他の誰かが「それは逆だ」と言ったとしよう。あなたが淡々と、事実と知っていることを述べる場合はEGOが介入していないが、「どうして、この人は私の言っていることを信じないんだろう」と思った場合には既にEGOが入り込んでいる。「光は音より早い」というのは真実だが、気が付かないうちに、「私」の見解、精神的な立場になり、誰かが「私の」言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。挙句の果てに、「光と音」のことで、防衛感情や怒りまでもが発生し、口論になってしまうこともある。自分は、今「事実」を淡々と述べているのか、または、EGOと一体化し自分の「見解」を防衛したり、優越感を感じようとして述べているのか、見極める必要がある。

私は正しい、あなたは間違っている

「正しいのは私で、あなとは間違っている」という確信は、個人の人間関係でも、国家間、民族間、異なる宗教の間でも、非常に危険で、悲劇的な人類の歴史の原因になっている。「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念は、EGOの最も典型的な性質で、遠い過去から現在に至るまで人間同士の分裂と抗争を引き起こしている。

キリスト教の歴史では、自分たちの教義に違う意見を持つものを拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら奴らは「間違っている」からだと平然と言い続けてきた。「真理」は人の命より重要だと主張する、その「真理・教義」とは、自分たちが信じている物語・思考の塊ーEGOそのものなのだ。イエスは鞭で打たれ、十字架につけられた時に、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われた。イエスを信奉する教会がイエスの死後、イエスと全く違ったことを正しいと信じて実行しているパラドックスのような現実の背後にはEGOが存在している。

「正しいのは私で、あなとは間違っている」今一度、自分の中に同じEGOが生存していないかどうか精査してみよう。

集団的なレベルで強大化したEGO

集団的なレベルで「正しいのは我々で、彼らは間違っている」という思考は、中東エリアなどの世界の激しい紛争地帯では、人々の間に特に深く根付いている。対立する陣営は、どちらも自分達の「見解」、「物語」、「思考」と自分を完全に同一化している。他の見解、思考は「敵」であり排除しなければならないとEGOが主張する。どちらの陣営も自分たちが「真理」で正しいと信じ、「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく「敵」という概念でくくっているので、大人であろうと子供であろうと、暴力を振るうことが出来るし、人間らしい心の痛みも苦しみも感じないでいられる。攻撃と報復、やられてはやりかえすという悪循環に陥っている。

「我々」対「彼ら」という集団的なEGOと「私」のレベルの個人的EGOは、仕組みは全く同じであるが、集団的なEGOの残虐性や暴力性は狂気に近く、地球上の至る所に広がっている。この根底にあるEGOの残虐性などを個人的なものと受け取ってしまうと、自分も「彼らはこういうやつだ、許せるわけがない」と言い始める。他者の中にあるEGOを相手そのものと混同した時、あなた自身の中のEGOは「自分が正しく優れている」と考え、相手を「敵」と断定し非難や憤慨や怒りで強く反応することによりEGOが強化され満足する。

あなたと他者は別の存在であるという意識が強大化し、相手の「他者性」がとんでもなく拡大されて、もう相手が自分と同じ人間だとは思えず、人間として、生命を共有していることも、人間の神性も感じられなくなる。ナチスのヒットラーのユダヤ人大量虐殺などは典型的なEGOパターンの教訓になっている。

自分の中にある見えざるEGO

他者にEgoisticな性質や行動パターンを発見して、強く憤ったりして反応する時に、たいていは、そのEgoisticな行動が「相手そのもの」だと誤解する。そして、そのEGOのパターンは、実は自分自身の中にも存在するが、自分ではそれを見分ける力もないし、その気もない場合が多い。その気もないというのは穏やかな表現で、実態は、「とんでもない、どう考えても、あいつと自分が同じなんて、そんなことはありえない」ということだろう。

自分がいちばんムカつくのはー 相手の、自己中心的行動? 強欲さ? 権力欲? 支配欲? 言行不一致? 不誠実? 暴力的? 配慮の無さ? ・・・・一体なんだろうか。

どんな内容であれ自分が一番恨みや怒り、反発をして強く反応する相手の性質はー信じたくはないだろうが、ー 自分の中にも、確実に存在している。

ただ、ここで重要なことは、その反発する性質や資質はEGOであって、本当の自分や相手ではないことに気がつくことだ。その気付きがないと、その性質と自分や相手を同一化して、自己意識が脅かされたと感じ、EGOの争いのパターンに巻き込まれてしまう。

闘いというEGOの好物

テレビドラマ、映画でも「勧善懲悪」、「悪を退治する」ストーリーが好まれる。小さい頃から、この手のストーリーを刷り込まれて大人になると、無意識のうちに「悪を退治する」のは正しいことだと信じ込んでいる。

「悪を退治する」使命感を持つようになり、無意識のままで闘うと、自分が無意識のEGOにいつの間にか引っ張り込まれてしまう。無意識のEGO的な行動や相手は闘っても退治などできない。たとえ表面的に相手を打ち負かしたとしても、その無意識は単に自分のなかに密かに移行して、新しいカタチで現れるだけだ。何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、自分に抵抗するものは、しつこつ存在し続ける。

麻薬との闘い、犯罪との闘い、テロとの闘い、ガンとの闘い、貧困との闘い、平和の為に闘う、など至る所に「闘い」という言葉が使われるが、闘いは失敗するに決まっている。

闘いは心の癖、習性で、そういう癖から生じる行動はすべて、「悪」とみなす「敵」をかえって強くするし、たとえ短期的に闘いに勝ったとしても、すぐにその敵と同じか、それ以上の強敵が新しい「悪」を背負ってやってくる。自分の、意識の状態と自分の回りに起こる現象の間には深い相関関係がある。あなたが「闘い」という心の癖にとらわれていると、あなたの回りの出来事に対する知覚、解釈は極めて選り好みの強いものになり歪曲される。本当は、相手は悪意など持っていなくても、「悪意がある」と決めつける。自分の見たいものしか見ず、しかもそれを曲解する。そのような妄想に近い自分の思考システムから行動すると、結果は悲惨な事になるだろう。

あなたは「平和を望んでいる」と言うし、そう信じているかもしれない。しかし、心の奥底に波乱や、闘いを望む何者かが潜んでいることも事実だ。例えば、誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、他者の前であなたを貶めた・・・・その時自分の中で、何か大きな力が、怒り、敵意、恐怖の仮面をつけた強い感情が盛り上がってくるのに気付くだろうか? 声が荒々しくなり、心が自分の立場を防御し、正当化し、相手を攻撃し、避難しようとする戦闘状態の何者かがいると気づけるだろうか? 平和よりも、どんな犠牲を払ってでも、「敵」と闘わなければならないと主張する存在が自分の中にいることを感じられるだろうか?

優越感と名声を好むEGO

大抵の人はゴシップを好む。他人への悪意のある批判が、「自分の方が倫理的に優位」に立ったという優越感を感じるからだ。そしてそれを人に話す時、自分は他の人より「多く」を知っているという満足感、優越感を感じる。また、誰かが自分より多くを所有していると、相手の持ち物などの価値を貶めたり、けなしたりして自分を強く見せようとする。

有名人になると、回りの人達の集団的なイメージによって本当の自分の姿がかき消されてしまう。人々やメディアが創り出した集団的なフィクションに自分を同一化して、自分はそこらの人間より優れていると思い込み、名声を維持することにますます振り回される。有名人は他者と真の人間関係を結びにくい。EGOは何かを求めていて、相手には求めるものが何もないと思えば全く無関心になる。相手のことはどうでもよいのだ。

All Structures are Unstable: 諸行無常

自分が「大いなる存在」と繋がっているという深い歓びが覆い隠された時、EGOが出現する。EGOの動機はいつも同じで、目立ちたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっと欲しい、そして自分が他者より優れていると感じるために「敵」を創り出す。EGOはいつも「まだ十分ではない」という不満足感、欠乏感、いらだち、そして、自分が欲するものが得られないことに苦しむ。ある欲するものが手に入ったとしても直ぐに次の何かが欲しくなり欠乏感に苦しむ。EGOの欲望には限りがないので、苦しみの終わることはない。

EGOの根底に存在して全ての行動を起こしている原動力は「不安と恐怖」である。自分が評価されない、何者でもなくなるのではないか、存在できなくなるのではないか、そして究極的には「死の不安と恐怖」だ。結局のEGOの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、一時的に誰かと闘って勝利しても、欲しいものを手に入れても、一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想の世界でどんな努力をしても自分を満足させてくれるものではない。EGOは形の同一化によって生存するが、実はどんな形も永遠ではなくすべて移ろいゆくものであることをどこかで承知している。だから外見的にどんなに自信満々に振る舞おうと、EGOにはいつも不安定なたよりなさがつきまとっている。

どんな堅固にみえる物質だろうと、全ての形あるものは不安定だと気づき、それを受け入れると、心の奥に安らかん気持ちが沸き起こる。形あるものは儚く無情だと認識した時、自分の中の形のない存在、死をも超える次元に目が開かれる。これをイエスは「永遠の生命」と呼んだ。

TRUE IDENTITY: Beyond your EGO

EGOが闘っている時に、そのEGOは妄想(Illusion)であると気付くべきだ。だが、EGOがサバイバルモードにあって、過去からの感情的パターンが作動しているときには、その背後にある本当の自分に気付くことは難しい。しかし、一度でもその目覚めの感覚を体験すると、PRESENSE(今ある)のパワーが強化され、EGOの束縛力は弱体化されていく。信じられないほどの大きなパワーがあなとの人生に発生する。EGOから開放されるのに必要なのは「気付くこと」Awarenessで、今の瞬間に秘められた絶大なる力だ。

人間の究極の目的は、このPRESENSE(今にある)の力を世界に広めることで、このPRESENSEこそが、EGOからの開放の鍵となる。PRESENSEがあなたの過去から生存し続けたEGOを解体し、あなたの意識の状態を「大いなる存在へと」変容させる。

目覚めとは、自分が知覚し、体験している対象のすべては、EGOが創り出したもので常に流動的で儚い常にうつろう幻想であると見抜くことだ。歴史上で最初にこれを見抜いたのが仏陀であり、またイエスであった。諸行無常とは、EGOの作り出す思考の産物が確たるものではなく常に移り変わることをいい、その幻想を捨てた時「大いなる存在」、深い真の「私」が現れてくる。その真の自分を知った時、人生で全てが相対的な重要性しか持たなくなり、その出来事を尊重はしても、それに振り回されたり動揺することのない不動心が得られる。

人生の中で、常に「大いなる存在」という自分の本質を感じていられるか? 今この瞬間に「私はある I AM」と感じらていられるか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次